☆ 幻のリサイタル

Posted by bun | | 木曜日 21 10月 2010 10:05 AM

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このページは管理人の兄が当日会場で録音していたテープを元に作成しました。

<昭和52年5月6日>

ピアノの曲が流れる
司会の藤村有弘さんが静かに語り始める。
「昭和36年2月14日午後0時20分頃 昼休みでにぎわう日活撮影所メインストリート。
一台の赤塗りのゴーカートが、時速およそ50キロのスピードで突っ走って来た。
そのゴーカートには、白いヘルメットにサングラスをかけた大きな口を開けてちょっと照れた笑顔を作ってる赤木圭一郎の姿が有った。
疾走する車のエンジン音。早春の風に共鳴して21歳の若者の歌を歌っていた。
やがてゴーカートは青春と言う舞台を通りすぎるように突き抜けて行った・・・
その直後の事である
<ピアノの炸裂音>
するどい衝撃音が空気を振るわせた。
「トニー!!」「トニー!!」
悲痛な叫びが集まった。
しかし大きな鉄の扉の前で、紅の海の中に横たわっている彼に返ってくる言葉は無かった・・・
時にそれは、俳優「赤木圭一郎」こと「トニー」
25作目の出演作である「激流に生きる男」撮影中の出来事で有った・・・
<高らかなトランペットの音とともに「激流に生きる男」の主題歌が流れる。会場からファンの声が響く>

・・たそがれの海・・
たそがれの海は母のやさしさ
バラ色の愛情をいっぱいたたえ

ホラ 
波がなつかしい子守歌を歌っている
友よ そのつかれた心を
柔らかな砂のしとねにそっと横たえ給え
清らかな潮騒で
巷の汚れを
きれいさっぱり洗いおとし
身を灼く懊脳は
海の底に投げこむのだ
ポツンと沖に浮かんでいる
あの白帆が
君の孤独をわかってくれる
いま君が欲しいのは
優しいことばだけじゃないのかい

やがて しめやかに
星が舞い降りて
君を
心地良い安息の
揺籃に誘うだろう

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藤村・ ええ甦るトニー、ええ今夜のリサイタル。まず出てまいりましたのは、あのトニーとは似ても似つかぬ中年太りの藤村有弘でございます。
ようこそおいでくださいました。赤木と言うと幻のリサイタル。
ええ、「霧笛が俺を呼んでいる」ならぬ「霧笛がお客を呼んでいる」という訳でございまして、こんなにたくさんのお客様が来ていただきまして、さぞやトニーは今頃海の彼方のもうひとつの世界で「俺嬉しいけど恥ずかしいなあ、照れちゃうなあ」とつぶやいているんじゃないかと思います。
トニーはもう皆さんよくご存知だとおもいますけれども、大変な照れ屋でございまして、そして俳優であるにもかかわらず大勢の前に出ておしゃべりをしたり歌を歌ったりすることが大変苦手だったわけでございます。
本来ならば今夜はトニー本人が出てきて皆様方と楽しくおしゃべりをしたり歌ったりするんでございますが、まあそういうわけでございまして今夜は本人はこの舞台には出てまいりません。
どうぞ、皆様そういうトニーの性格をご理解いただきましてトニーの欠席をお許しいただきたいと思います。
その代わりといってはなんでございますけれどもええ生前のトニーと親しいお友達である素敵なお客様を今日お迎えしておりますので、のちほど舞台にお呼びいたしましていろいろお話を伺いたいと思います。
ええ、という訳で「赤木圭一郎幻のリサイタル」という訳でございます。

さて赤木圭一郎トニーがこの世を去ってからもう16年になりますんですが、ええ今では中年の私もトニーを思い出すたびに青春時代の端っこにしがみついていた頃を思い出す訳でございます。

今、スライドを皆様にご覧入れたいと思います。
トニーは生前25本の作品に出演いたしまして、長尺入れますと25作品出たわけでございますけれども、そのうち主役が約11本ございます、
私はそのうち9本、ほとんど一緒に共演をしておりまして、なかなかいい青年だったことを思い出しておりますけれども、もうこういうフィルムも段々数が少なくなってまいりまして、どうぞひとつゆっくりとご覧いただきたいと思います。
<スライドの上映が始まる>
トニーこと赤木圭一郎。本名は赤塚親弘(あかつか・ちかひろ)昭和14年神奈川県は藤沢市に生まれまして、文字通り湘南ボーイと言うわけでございます。
お父様は歯医者さんでございまして、4人兄弟の次男坊でございます。
湘南の海に生まれ育ったトニーは大変海を愛しておりました。ですから幼い頃から大きくなったら船乗りになろうと思ってた訳でございます。そして高校を卒業したトニーは小さい頃からの夢で有りました船員になろうと商船大学を目指しますが、これは残念ながら受験に失敗してしまいます。
もしまあ商船大学に合格しておりましたら今頃トニーは船乗りとして世界の海を駆け巡ってるとこじゃないかと思います。
船乗りをあきらめました彼は成城大学に入学いたしまして、でもまあ船乗りになるという夢が破れたトニーは、大学へ入ったとは言うものの、これと言った目的は全然無い日々を過ごしていた訳でございます。

そんなある日、日活映画のスカウトがトニーに俳優にならないかと持ちかけた訳でございますが、トニーはけっして俳優にあこがれていた訳ではございません。
ただなんとなく、そうでございます、ただなんとなく誘われてニューフェイスの試験を受けて、なんとなく俳優になってしまったと言うわけでございます。
それは昭和33年8月、トニーが19歳の夏の事でございました。
そして入社間もなく「拳銃0号」という作品でデビューいたしまして、その後「大学の暴れん坊」という作品で主役を演じ、これもわたくしでておりましたけれども・・
そして2年間の間に合計24本の映画に出演いたしました。
彼のことをなぜトニーと言うかと申しますと、この愛称はアメリカの当時人気スターでございましてトニーカーチスから来てる訳でございまして、彼の口元がトニーカーチスに似てるところから、まあ妹の久子さんが名づけ親だと言われておりますけれども、トニーというふうに呼び名されて来たわけでございます。
トニーの身長は175センチでございます。
ええ、今様のスリムな若者と違いまして胴長でございまして足が短くてですね、ええ今でも覚えておりますけれどもダッフルコートなんか着てますと下に引きずって歩くような感じでございますけれども・・
<会場から笑い声>
それがカッコいいんだという事でだいぶ気に入って着ていたようでございます。
体重は67.5キログラムと当時の資料に記されている訳でございます。
海を愛しロマンを愛し孤独を愛し、そして音楽も愛しておりました。
服装はジーンズルック。そして足には履きふるしたワークブーツ。
これがいつもの彼の姿でございます。
そして冬はただ今申し上げましたけれどもダッフルコートの中に肩をすぼめながら撮影所にやってきた訳でございます。
タバコはハイライト。そしてお酒はハイボールを少し。趣味と言えば、そうですね、よく一緒にボーリングに行った事も思い出しておりますけれども。
それからトニーの最後の作品になりました「激流に生きる男」そして高橋英樹がデビューした訳なんですけれども・・もともとこれは石原裕次郎さんの為に企画されたものなんでございます。その裕ちゃんがちょうどスキーで足を骨折いたしまして、赤木圭一郎がピンチヒッターになった訳でございます。
ええ赤木圭一郎・・非常に裕ちゃんが弟のいようにかわいがっておりまして、裕ちゃんばかりではございません、二谷英明さん、旭さん、誰からもかわいがられておりました。
それは昭和36年2月21日午前7時30分。
あの事故から意識不明のまんま百数時間をベッドに横たえたまんまついに帰らぬ人になった訳でございます。
<霧笛が俺を呼んでいるのラストシーンと歌>
霧笛が俺を呼んでいる<
<紅の拳銃のラストシーン歌>
<藤村さんの声のトーンが低くなり>
ええ、こうやってトニーの在りし日の姿を見つめ・・今ここにトニーが居るような気がいたしますけれども・・・・
さて今日はトニーの仕事仲間でもあり、また友達でも有り、先輩でも有った素晴らしいお客様に来ていただいております。

宍戸錠さん、白木ママ、川地民夫さん、柳瀬志郎さん、それからこちらにいらっしゃいますのがアベさんとおっしゃいまして「近代映画」の今お仕事をしていらっしゃいます、当時よく取材にあたったかたでございます。
錠さんからまずお話を伺いたいんですけれども、トニーとの初めての出会いってのはいつごろだったんですか?
宍戸「ええ、私の場合はですね、日活に入りまして昭和29年に映画を再開いたしまして、そこの僕が1期生でどういうわけか2期が葉山良二。3期が小林旭・二谷英明。4期が赤木圭一郎。ですから彼はですね昭和33年かな、33年の後半に日活に入ってきました。34年くらいから、ようやく仕事をしだした・・
そしてまずねえ、彼が撮影所へ、これはまずあのニューフェイスの場合ですと3ヶ月間は養成期間ってのがございまして、そこで必ず、あの演技の基礎訓練、3ヶ月で出来るかどうかわからないんですけれども、そういうまあ経過を経てプロセスを経て、そして赤木圭一郎が入ってきた時に、なんて素敵な子が入って来たんだ・・
あのねえピンクの半そでシャツ着て、身体が彼はゴツかったから・・足は短めだったですよ僕よりね<笑>このくらい、でもねえ、何て言うかねえ・・今までの若者に無い雰囲気をね・・持ってるわけ・・それでねえ、ああ、あいつ何て言うんだ・・「赤木圭一郎」何となくトニーと呼ばれていた・・
何でトニーかって言ったら、さっきバンさんが説明していた、トニー・カーチスに似ていた。別にトニー・カーチスに似てなかったけれども、トニー・カーチスよりもっと良かった。<会場大拍手>
それがパッとね、いまだに僕は忘れないんですけれども、演技課と言うところが有りまして、メイン通り、トニーが短いジーパン穿いてズタボロのズック履いてねえ、今のダウンタウンブギウギバンドの宇崎さんみたいなね、あまり想像しないでくださいめがねを取ったところはね(笑)非常にしかし当時の若者としてはね、ハツラツとしたなかに何と言うか・・非常に都会のその重圧感を持っていると言うかね、素晴らしい感じで来たから、よし後援会作ろう・・これが僕の初印象だった」
藤村「ああ、そうですか」

藤村「白木さんは?」
白木「私はねえ、デビューが32年の暮れでして、今、錠さんがおっしゃったように昭和33年ですかトニーが入ってらっしゃったのがね。それで今素敵な人とおっしゃいましたけれども、ほんとに女性、全女性がね、何しろ話がしたくてねトニーと、それでみんなね、あのトニーのそばに居ても無口な方でねえ「あ、どうも・・」というくらいしか返ってこないんですよ(笑)」
宍戸「今の・・似てたよ あ・どうもってのは(笑)」
白木「でもねえ、みんな日活の仲間ってのはグループで食事に行ったり、必ずそういう会を月に一回持ってましたよね。それで行ってもねえ、いつもあのう隅っこのほうに一人でポツンとしてて、みんながぎゃあぎゃあお酒飲んで騒いでても、ただそのみんなの話を聞いて飲んでる印象ですかね、私は・・」
藤村「川地さんはどうですか」
川地「僕ですか、僕はねえ、彼とは仕事と言うのはね、2本ぐらいしかしてないんですよ。だいたいスキーに行くときとかね、海に遊びに行くときとか、そういう時はいつも一緒だったんで、まあふだん仕事をしてない時の彼といつも一緒だったというくらいで仕事の印象ってのは僕はあまり無いんですけど」
藤村「2本くらいしかやってなかったの・・」
川地「ええ、彼がデビューの作品「拳銃0号」と「若い傾斜」という2本しかしてないんで他は後まあ彼も一緒だったけどスキーに行ったり、鉄砲(猟銃)撃ちに行ったり、そういう時ばっかり、コンサートとかそういうときばっかり・・同じ所の出身ですからね。こんな小さい時から一緒に・・彼は葉山にいた頃から一緒に遊んだグループだったから、そんなことで学校も後輩だし・・そういうことで:・・・」
藤村「今、生きてるといくつ?」
川地「彼はちょうど38になるんじゃないですか」
藤村「錠さんも、今映っていたけど若かったねえ(笑)」<会場爆笑>
宍戸「あのねえ、僕とはね6つ違いなのね」
藤村「ええー?」
宍戸「そうよ、赤木圭一郎と僕は6つ違い。その6つ下が吉永小百合とか松原智恵子」
藤村「ああそうかそうか・・・アベさんは、あの頃トニーの写真を撮りによく来てたでしょ」
アベ「あのねえ。一番最初にだったのが、井上さんの「群集の中の太陽」それであの秩父宮ラグビー場で、ロケが有った訳ですよ。そのときに柳瀬さんがおいでになってたのでね、わたしねえ、すると良い男が居るって訳ですよ。それで赤塚って言うんだ。どなたか赤木って言ったのは、それから後じゃないかと思うんですね、芸名決まったのは。それで顔見た瞬間に眼と唇が印象に残ったんですね、ええ。
藤村「柳瀬さんは、あなたはだいたいほら・・・」
柳瀬「僕はねえ・・川地さんと全く同じでねえ、あの頃僕はやっぱり裕ちゃんのアクションが多くて2本くらいしか出てないんですよ、でもやっぱり普段、さっき言ったスキーとか、あのころやっぱりまあ勉強の為と称して、夜、まあ、5.6人の悪友はですねえ巷をさ迷ったり。
僕の印象では、やっぱりあのう。そう言ったさっき白木さんが言ったように無口だと言うけれど、錠さんが言うように大変モダンで明るい性格というけれども、僕の感じでは、大変何かあの頃都会的な哀愁ね。何か非常にわび、何か悲しいような、それがいまだに離れませんね。
<
宍戸「ちょっと、すみませんけども、食事の話がさっきから・・一人ポツンと食べてるところがね、だいたい日活の食堂でライスカレー150円の時代(笑) (彼は)まずライスカレー。野菜サラダ特別。こういうドンブリバチ1杯ね、だいたい5人家族一皿って感じを1人でぺろりと。それからアイスクリームちょうだい。
その後にコーヒー。これはかなりやっぱり食べましたね。かれは・・だからそこいらがね・・あのう彼のエネルギーの根源になったんじゃないかというような」
藤村「あのう錠さんから見て彼のアクションなんかはどうだったんですか?」
宍戸「これはねえ、カッコいいのなんのってねえ、ご存知の通り・・どっちかといえば当時やはり横綱でありました朝潮太郎型なんですよね。わかるかなあ・・わかる・・つまり胴が長くて足がガッチリしていてデカイ。
短いって言っちゃあ語弊が有るけれども、ガッチリしていたんですよ、わりと毛深くてね。運動神経もあまり無いみたいなね。朝潮太郎さんはドタドタしてる、そういう感じが彼にも有ったけれども、ところがそれがねえ一旦やっぱり・・フィルムさんざん皆さんご覧になったと思うんですけれども、そこで彼が一つねえ、タバコを吸うとするでしょう・・そういう時はそれ・・<仕草で表現 会場驚きの声があってドッと笑い声>これで1960年代の青年の悠々しいと言うのを全部表現しちゃう<会場大拍手>
藤村「なるほど!・・では錠さんねえ、トニーが死んだときまず何を思いました?」
宍戸「いや、今バンさんが、いみじくもさあ、まあその撮影所を衝撃音が走ったというけどね、あれ、実はねえ、ほんとのこと言いますと、あのう石原裕次郎が足を折りまして、そして突如その「激流に生きる男」と言うのを撮影中止せざるを得なくなったけれども、そうなるとやはり石原裕次郎ってのは昭和35年36年にかけてドル箱スターだったんです。ええ、そのうダイヤモンドラインが石原裕次郎 小林旭 和田浩治 赤木圭一郎のその4人で持ってる。そのローテーションを組んでおりまして、一月、それぞれの主演が一本づつあって12本。それに当時SPと言いましていろんな小さいそれなりの・・が。月に8本やりまして、それで回転していた訳なんで、その一角が崩れた。しかも一番入る人が崩れた。しょうがない、それで僕は石原裕次郎が足を折ったお陰で主役になれたんですその年(笑)
ええ、まあそのとき日活の売り文句が、赤木圭一郎を前面に打ち出そう、そして石原裕次郎が撮影ちょっと入ってました「激流に生きる男」を赤木圭一郎にやれということだった訳ね。
でえ、その穴埋めとして僕はまたあ浮かび上がって来た訳なんだけども・・まあ赤木圭一郎は、その前の「紅の拳銃」あなたも出てましたね、だいたい4500人来たのね客が一館につき。今この会場は1500人入るそうですけど700人くらい。これは我々映画を作ってる側が悪いのか皆さんが悪いのかTVが悪いのか、あまりねこういう催しものとかなんかにあまり皆さん興味が無くなってきた。今日来てらっしゃる方は皆さん興味の有る方ばかりで非常に奥ゆかしい(と聞こえるが実際は何を言ってるのか聞き取れない)
何を言わせるんですか(笑)」
藤村「いや良いじゃないですかいろいろと・・」
宍戸「忘れちゃったー(笑)・・」
藤村「40分しゃべるって言ったひとりで・・(笑)
あのーそれからねえ、これは皆さんに聞くんですけど、まあこういうふうにして、お客さんたくさんいまだに来るわけですよ、お客様がね。
何?何かそういうものを持ってる、トニーが亡くなってからもう16年も経ってるのに、なぜ皆さんこうやって来てくれるのか、何かそこに秘密があるのか・・」
宍戸「やっぱり、悲劇的な死。それとその後のね、じゃあ赤木圭一郎に代わる若者が誰が出てきたか、こう考えるとね、やっぱり郷ひろみさんじゃないな<笑>西条秀樹さんでもない。誰かなあ、まあ若いショーケンかな、ちょっと違う・・」
藤村「まあ線が細いね」
宍戸「だからそういう意味で 1960年代って言いますと昭和35年ですね。やはりそして次に第一次安保。
襲い来る不満と言うかねえ、そのときの学生たちが、やっぱり自分の肩に背負った重荷。悩みとか苦しみとかもね。ほんとに代表する選手だったわけ彼は。でもまあ、その後70年安保も過ぎた。
そして今「仁義なき戦い」いろんなねえ映画ってのは流行すたりってのはあります。
あるけどもねやはりね、その時代にあのう若者の悩みってのを彼が一身に・・ 」
藤村「柳瀬さん・・」
柳瀬「いや、でもねえ、ほんとに今・・・実感としてね・・もういつもねえ、そう思わないんですよね。と言うのはねえ・・あまりにも突然にってのも有るんですけれどもねえ、彼はほんとに・・その僕たちのそばにいつまでも・・なんかそのへんにまったく居るような気がするんですよ、あのまんまで、ええ、歳もとらないんじゃないかなあ彼は・・・」
藤村「錠さんねえ、私がさっき、あなたSPって言ったけども、おヤエさんの映画を撮りに行ったとき・・羽田にロケしてたんですよ、で、製作主任の、誰だったかなあ・・チャーさんだったか、誰かが赤木が怪我をした・・で・・撮影所に帰って錠さん居たでしょうあの時「どうした?」って言ったら「大変」って事でねえ・・」
宍戸「あん時はねえ・・あのう・・(川地に)ああ、さっきそれを言いたかったのか・・」
川地「いやあ、一緒じゃ無かった、あのとき食堂でもって話・・・」
宍戸「僕は《ろくでなし稼業》二谷英明と・・あのう試写室から・・ラッシュ(撮影したフィルムを編集せずそのまま試写するフィルム)撮りますとちゃんとそのフィルムを見なくちゃいけない《ろくでなし稼業》のね。
それで、こう2人で見て、めし食おうかなあってその試写室から出て、メイン通りに来たら、左側にちょうど駐車場がございまして、そこに真っ赤なジャンパーを着て白いヘルメット。ブルーのフードが付いている。で、それが・・」
藤村「あのねえ、あれは紅の拳銃の時に神戸で買ったんですよ」
宍戸「赤いジャンパーを?」
藤村「あ、いやヘルメット」
宍戸「ヘルメット、ああ・・ものすごく良いヘルメットなんです。それでねえグォーーグルルグォーってやってるからね、見ろアキラ、あんなもん買ってきて、小林旭です。昔の名前で出ていますけれども<場内爆笑>
絶対そういうねえ、まあゴーカートってのは、もちろんその当時初物でございまして、まだ路上運転許可の出てない頃、で、それに乗っててねグァオグァオって絶対僕ら見た瞬間にフードかぶってますから、赤いジャンパーでしょ、もう小林旭に違いない。『アキラ、またあんなオモチャ買ってきて、バカめ・・』なんて言ってたの。本人の前ではそんなこと言いません<笑>そしたらね突如、その車が走り出して僕らのところにきた・・『どいてどいて!!』『あ、お前、トニー!!お前そんなことやってちゃんと気をつけないと駄目よ、どっかにぶつかって鼻血でも出しちゃいけないんだから、気をつけなさい』『大丈夫大丈夫』っと行ったんです。当時ゴーカートってのはあのうパンフレットには50キロって書いてましたけど40キロしか出ないんです。だいたい35キロでメイン通りを走って、で、さっきやはり川地さんなんかも一緒に・・」
川地「いや、ちょうどね、僕はね食堂でもって話して、これからゴーカート持って来るんだと話をしてたわけ。僕はたまたま石原裕次郎さんが慶応病院に入院してたんで、じゃあこれから慶応病院に行ってくるからって出て、その時にちょうどゴーカートとすれ違ったんですよ。それで僕はちょうど慶応病院に着いた時に赤木が怪我をしたってんで『バカもん』ってそれで・・」
藤村「しかし錠さん、あの扉ってそんなに固いものじゃなかったでしょ」
宍戸「扉じゃないね」
藤村「なに」
宍戸「だからね、いやいや、あれ、あいつの話でも流さないように一生懸命めし食おうって二谷さんと二人で食堂入りかけたとき「トーン」って音がしたんですね、衝撃音じゃないんです鋭い音じゃない「ドーン」って軽い音。
と言うのはね撮影所、大道具のこういういろんな壁、木と紙で作ってありますね。そういうものにぶつかったに違いないって音だった訳。
僕らは『ほらもうぶつかってるよ、あ、めし食おう、めし食おう、だいじょうぶだいじょうぶ、またすり傷作ってくるよライスカレー食いにまた来るだろう』なんてね、入ろうと思ったんだけど、石原裕次郎の怪我が有ったし、あれひょっとしたらヤバイなってもう、ワーっと走って行ったわけ、当時やっぱりその辺に居た人がみんな走って行った。
(そしたら)戸板に乗っかってね」
藤村「いびきかいちゃってたの・・」
宍戸「いびきって言うよりねえ、もう何も音はしない まあ瞳孔が開いちゃっててねえ」
藤村「どこを打ったって ヘルメット?」
宍戸「ここですよ」
藤村「ははあ」
宍戸「だから、これはあくまでも現場に居たわけじゃないからわからないけど、僕の推理だけどね、T字になってるわけあそこはね、
そうするとグァーっとそうメイン通りを走って行ったらね、向こうリヤカーで運んでる、ああヤバイ、まあブレーキを踏みながら曲がった」
藤村「あれ錠さんブレーキと違うんでしょう」
宍戸「普通はねこっちにクラッチがあるわけ、まだオートマなんかあんまり無いから、そしてブレーキが有ってアクセル。ところがここに(逆の位置に)ブレーキが有ってアクセル・・ここにハンドルが付いてる。だから思わずね・・・」
藤村「踏んじゃった」
宍戸「ブレーキ踏んだらアクセル。だからそうすると。そこにね大道具の壁なんです。そこに縁石が1メートルくらい出ている。そこにゴーンとぶつかってそのまま反動でドーンと、でそのヘルメットが頑丈だったのねえ」
藤村「あれはジェット機の・・」
宍戸「それでフードがねえ、やはりプラスチックで出来てた。そしてここに刺さっちゃった。頭蓋骨陥没起こして、そして内出血。だからねえ・・そんときの顔がね、突如戸板に乗せて運ばれて来た顔を見たときに、こんな美男子が世の中に居るかしら・・ルドルフ・バレンチノ。今日来てるお客様あまり知らないと思うんですけども・・笑った人は古い人よ<笑>ものすごく美男子なわけジゴマとかなんかのね。で、その顔とそっくりな訳。あれ?これトニー?っていうような・・・

それから慈恵医大病院。僕は仕事で行けなかったんですけども・・そのときの6人だいたい、あのう屈強な若者です。当時の日活アクションを担っていたバタやんとかねシンちゃんとかね、そういうのが6人で運んでベッドに寝かしつけたら。もう大暴れして6人が全部ぶっ飛ばされたという・・しかも意識が無い・・・そしてそのベッドの中でね、ええ、まあ1週間くらいたってもね・・突如この手がパッと上がって・・ギューっと握ったと思ったらチュッチュッ、こうやってね、もうあのねライターを点ける仕草をして「もう大丈夫赤木治った」そういう情報が乱れ飛んで約21日間生きてた(21日までの間違いか)まあ意識が失ったまま生きてた、そういういわれがありますね。
僕がまあ16年17年のうちに僕の心の中で僕の頭のなかで、まあ・・・されたらすることは有りますけど。これがほとんど事実に近いんじゃないでしょうか」
藤村「なるほどね・・いろいろまだお話を伺いたいんですけどね、プログラムを進行させたいので、また後ほどゆっくりとお話を、どうもどうもありがとうございました」<拍手>

ええ今宍戸さんはじめ皆さんのお話を伺ったんでございますが、まあこの後にもゆっくりとお話を伺う時間を作っております。
まあ、そういうわけで皆様の心の中にトニーが生きつづけているように、共に仕事をし、そして共に語り、共に遊んだ私たちの中にもトニーは今尚生きつづけております。そして、そう思いをいだき続けている友や仕事仲間もたくさんいる訳でございますが、ええ、今日、中原早苗さん、それから南田洋子さんが駆けつけるはずだったんでございますが、どうしてもビデオ撮りのため来られないということで、皆様によろしくと言うことでございます。
それから、さきほどスクリーンにもちょっと映りましたが、ええ、私たちみんなリャンピンリャンピンと呼んでたんです。一番赤木君と共演作品の多かった女優さん、笹森礼子さんから、ええ、もう俳優さんを辞めまして、女優さんを辞めまして、ええ、一家の主婦として幸せな毎日を暮らしている訳でございますが、ええ、笹森さんからメッセージをいただいております。皆さんと一緒に聞きたいと思います。どうぞお願いします。


皆さん今晩は、元・日活の元・笹森礼子です。
ええ、共演した皆様のお誘いを受けましたのに2,3日前から風邪をひきまして出席できなくてほんとに残念です。こんな声でごめんなさい。そうそうあれからもう16年、今でもとっても信じられない気持ちです。トニーと共演した数々のシーンがつい昨日のように思い出されます。
あのう・・わたしね・・「トニー」って昔からあんまり言ったことないの。それでね、トニーって言うと何だかちょっと言い辛いんですね。赤木さん赤木さんって私は言ってたの。それでたくさんの映画の中で共演しましたけれども、特にその中ではね「幌馬車が行く」と言う映画が有りました。それがあの立山連峰に1ヶ月もロケーションで篭りっきりで、山の中で篭りっきりで、あのう、黒部ダムがまだ建設途中で、ほんとにもう山の奥深いところに入って1ヶ月間ロケしたんですけれども、その時、お天気待ちの時にね、テントの中でいろんな雑談してましたら、小さいときに私は江ノ島の方で育ちましたんですけど、赤木さんも鵠沼の方で育って住んでらしたのね。ちょうど同じ小学校へ偶然通ってたんです。それからいろんなお話が発展して・・赤木さんってテレやさんみたいでね、あんまり仕事以外の話って私もした覚えがないんですね。
けれども、そのう小さい時同じ小学校だったし、同じ先生に習ったって事から急にお話が出来るようになって、それで赤木さんて、こんな人だったんだなあと思うようになって、とっても楽しかった。そういう想い出に残る作品なんですよ。
それから、後は・・あのう・・「紅の拳銃」と言う映画が有りました。それは私の役がね「開き○○○」だったんです。それで眼が開いてて見えないふりをする訳ですね。それだから、とっても難しくて、牛原先生だったと思うんですけど、何度も何度もやり直されたり、とても苦しかったのね。それで・・赤木さんとお茶の間でお茶を入れてあげて2人で話すシーンが有るんですけどね、お茶を入れるのも「開き○○○」ですから・・ながら手探りでそのお芝居をしなきゃいけないの。で、それが出来なくて、何度も何度もNG出してね、長いことかかって赤木さんに付き合ってもらったから、それがとっても忘れられないですねえ・・・

藤村「という訳でございまして笹森礼子さんの想い出の話でございました。
他にもたくさん今日は祝電が参っております。『リサイタルおめでとうございます。赤木圭一郎さんの想い出をファンの方と偲びつつ、リサイタルの成功をお祈りします』西田佐知子さん。それから渡哲也さん。草川雄馬さん。以上の方々から祝電をいただいております」

それから、ええ、ここでトニーのヒットパレードと行きたいわけでございますが、ええ、もちろんトップバッターは宍戸錠さんに歌っていただきたいと思います。まずこの歌でございます。

宍戸 錠 『黒い霧の町』
♪黒い霧が降る町~

トニーの映画から歌の部分・・

藤村「皆様と楽しく過ごしてまいりました、この赤木圭一郎のリサイタルでございますけれども、錠さん、今日はほんとうにありがとうございました。
宍戸「どうも、バンさんお疲れ様でした。何よりもあのうやはり16年経っても、死後、今年で17回忌を迎えた訳ですけども、やはり皆さんの心の中に赤木圭一郎は永遠に生きて行くと思います。僕の心にも残っています。
そして僕は彼が死ぬ直前ですね。1週間前に、あいつはですね、ところかまわず、時間もわきまえず、夜中の3時頃『錠さん、遊びに行こうよ』当時私は2階に住んでおりました。上を見上げましてですね、『錠さん、行こうよ』と『うるせえなあ、バカやろう、俺もう明日早い、ダメだから鍈治と行け』『ああそうですか、じゃあ行きます』ブーっとそのまま自動車の爆発音を鳴らしまして闇に消えて行った。
まあそれを、そういうことが2.3回あったんですけど、どうしてそんとき僕があ一緒に行って・・また、当時僕が居たところはですねえ、マミアナ・六本木の先のマミアナのガーデニアというところでして、そこがいつもの我々の溜まり場で、なぜ一緒に飲まなかったのかなあ・・いまだに悔いております・・でももう悔いていたから言ってもしょうが無いことでありまして・・
ただ我々やはり不世出の赤木圭一郎のこれからの冥福を皆さんと一緒にお祈りしたいと思います。どうも、そしてほんとに今日はありがとうございました。トニーも非常に喜んでいると思います。
藤村「ありがとうございます。どうも・・
ええ、自然児の哀愁、野性的な都会人、孤独なロマン野郎。人はトニーをいろいろな表現で呼びます。でも一つだけ共通して誰もが言う言葉がございます。それは海を愛した一人の男だと言うことでございます。トニーは湘南の海に生まれ育ちました。湘南の海が死ぬほど好きだったんでございます。中でも青春のように燃え滾る夏の海を愛していました。
海の彼方に旅立ってから、やがて16度目の夏が湘南の海にやってまいります。さてトニーの思い出を語り共に楽しんでまいりました「幻のリサイタル」いよいよお別れの時間でございます・・・
・・・最初の霧の晩 ホテルの窓辺で 初めてあなたとお逢いした時の霧笛が 
今でも耳に残ってます・・・
・・・さようなら・・・・
・・・ごきげんよう・・・
♪霧の波止場に 帰ってきたが 待っていたのは・・・・・

・・・ トニー 君は青春の代名詞 ・・・・
・・・ トニー 君はある日青春という海をその腕にいだきながら一人黙って旅たって行った ・・・
・・・ トニー君はそれを限り有る青春という名のドラマのラストシーンと言うだろう・・・
 しかしトニー幕は下りていない
・・・ トニー君の演じた青春のドラマは 今若者たちによって語り継がれ 心の中に甦っている・・・・
・・・ トニー君は今若者たちの心の中に生きている・・・
・・・ トニー若者にとって君は青春そのものなのである・・・・・・・・・・・

<トニー!!会場からの声が響く>



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